たまにはポエムチックなことを書いておこうと思います。
2022/08/01: 改定
2022/10/30: 改定(ある程度精神安定したため)
近況としまして、6月の第2週に自殺未遂をして死への恐怖に勝てずグタグタしている間に助けが来て病院に行った次第です。
現状は非定型抗精神病薬により、どうにか安定を取り戻し暮らしてますが、過去最悪の精神崩壊だったため完全復活には時間がまだかかるだろうなと言う感じです。
本来はその始末を詳細に書こうと思ったんですが、ある人にそれはやめたほうが良いと言われたので別のことを書くことにしました。(記事自体は完成していたのですが、消しました。)
精神薬に頼ってフラフラ生きている時に、ネットで見かける様々な鬱に対する発言に色々思うことがあったので普段は言語化しないですが精神薬で気分がいい(のかよくわからない)ので、これまた適当に書いておこうと思う次第です。ついでに薬の効果と作用も書いておきます。
先に断っておきますと、ここに書いたことは一個人(それも壊れかけ)の発言なので、似たようなことをしている全員には適用出来ないはずなのでお気をつけください。
まず、「世間話で死生観について語ってしまう」という発言に対して。
自分は気持ちはわかるし、本心では割としたいのだが理性で抑えてることが多いです。
死生観についてついて気軽に語ってしまいがちなのは、当人にとって死生観は「本当に身近な話題」だからと思うのです。
かれこれ20年以上生きているわけですが、他人が生きているのが「なぜ」なのかはよく気になっています。それで、ふと雑談などしていると聞いてみたくなる気持ちがあるのです。
そこで発生する認識のズレとして「生きる」という状態の違いです。
恐らく一般の人間(?)にとって、「生きる」というのは”Continuance”なことであって、生きている、生きていたいというのはデフォルトなわけです。そして「なぜ生きているのか」と問われれば「家庭があるから」「今の生活が楽しいから」など自分に大切なことを答えてくれます。
一方で自分にとって「生きる」というのは”Maintenance”することであって、生きている、生きていたいという方向に常に意識的に持っていかなければならないわけです。
例えば、行動原理のメータがあるとすれば一般は生きるという状態に針があって、これにストレスや嫌なことがあって、死という方向に錘で引っ張られる、という感じなのだと思います。
一方自分は、メータの針のデフォルトが生と死の境目、もしくは死に傾いていて、これを責任や目標という錘を持ってして、生の方向に持っていこうとします。これは別にストレスからくるものではなく(ストレスはまた別に死の方向への錘となっている)、漠然とした考えでそういう感じになってしまっているのです。このため、メータを生きるという方向に持っていくために常に錘が必要となります。この錘を常に他人を参考にしながら作ろうと思うわけです。
こんなズレがあるので、死生観の雑談もうまく行かないことが多いのです。
例えば、「なぜ生きているのか」という問いに対し、向こうが「家庭だ」と答えたとします。
それに対し、「では家庭がなくなればどうなるか?」と問いたくなります。
この時、相手は(ひどい質問だと思いながらも)「家庭がなくなることへのショックや悲しみ」という錘が与える影響について考えます。
一方でこちらは「『家庭』という生きる目標を失えば、やはり心は死に傾くのだろうか」という事を聞きたいわけです。
そして相手から「死にたくもなるだろう…」と帰ってくれば、やはりこの人を生に傾けているのは家庭というものなのか、と思うわけです。
ところが、追加で「でも…なんとか心の整理をつけて、立ち直っていきたい」などと回答が帰ってくると途端に混乱するわけです。
相手としては「メータのショックという錘の糸をなんとか断ち切ってデフォルトに戻したい」という思いで言っているのに、こちらとしては「せっかくデフォルトに戻ったはずなのに何か新しい錘が出てきて、生に傾けようとしているのか、それは何か」と気になったり、「なぜまた新しい錘が出てくるのか」と疑問に思うわけです。それで話がだんだんとこじれていきます。
昔は、これをやらかして揉めてたりしてたわけですが、最近はようやくこれを理解したので人に聞かなくなりました。
何故、メータの針が死に近い方向にあるかは人それぞれだと思います。自尊心をメッタメタに壊すことがあっただとか、長らくストレスを受け続けてそれから開放されても戻らなくなったとか、色々あります。自分は例に上げた両方です。
そんでもって、何故生きているかは死ぬのがどうしても怖いから、だったりします。でも、それは死の手前で後一歩が超えられない、というあまり生きた心地がないものです。
追記:抗精神病薬を飲んでしばらく経ってからこれについて考えることが減り、人生今まで何だったんだという感じになっています。
さて次に思うのが、「XXな気持ちになったときは、こう思いましょう!!」という感じの啓発です。
恐らく助かる人はいるでしょうし、特に発言自体が悪だと思わないのですが、それを実践しすぎるのも辛いよな、という感情があります。
「XXな気持ちになる」というのは、たいてい(原因の有無を問わず)自然にそうなります。「自分のものが壊された、悲しいと思わなきゃ、悲しいな」と意識的にやっている人はなかなかいないと思います(実を言うと自分は一部これ似たことをやってたりするんだが)。
それに対し、「こう思うようにしよう」というのは意識的にする必要があります。感情を意識し、それに対し感情に理性面から「こういう風に思え」と言う司令をかけます。
ある程度慣れれば無意識に出来ますが、それが衝動的であるほど意識的にやらないといけないわけです。
さて、これが単独の感情に対する処置ならうまく行くと思うのですが、複数の感情に対する制御となると困難になります。
自分は生まれつきの特性と、家庭環境による後天的なショックによって、あらゆるものに対する感情が複数発生し、感情同士・理性が衝突するという事がよくあります。喜怒哀楽に感情の衝突がよくあり、何かに対する怒りは「それはお前のワガママだ」「相手にも事情がある」「その怒りは生産的か?論理的か?」という感情(というかこれはどちらかというと理性)が起きます。良く言えばアンガーマネジメントなんて言いますが、結局脳内がパニックになってややずれた方向の怒りが飛び出してしまうこともよくあります。
よく高校時代にあったのが、何かに不満に思ったり怒りを覚えたことを口からこぼすと親に「文句を言うな、嫌なら高校をやめて働いて出ていけ、親が扶養する義務を負うのは義務教育までだ」と言われて、とっさに反感を抱くのと、努力を認めてもらえなかったことや突き放されたことへの悲しみを持つわけですが、これが衝突してしまうため、理性面で調停するわけです。その際に親の言うことに論理的には間違いはなく、法に照らし合わせて生活保護条件のうちの扶養義務を基軸に反論の材料にしようか、冷静に返そうか、となるわけです。ただ、仮にこれを反論したところで労働意欲のない人間の扶養義務やら、「生存は権利であって義務ではない」などとまあ色々帰ってくるわけですし、元に世の中には中卒で立派にも働いておられる方がいてその人たちとの違いについて論じても仕方ないな、と言うことで怒りと悲しみを論理で収めます。逆に相手方は味をしめて繰り返しこの返しをしてくるので、この処理を繰り返すことになり、無意識のうちに怒り・悲しみを理性で調停しようと試みます、最終的に愚痴をこぼす原因となった不満などに対して自己批判が発生するようになります。まあ、人間(の脳)は感情が先で理性が後に出来てますから、この処理をやりすぎると色々壊れるものも出てきます。(ちなみにこの処理自体は口論の収束に効果的であることもあり、自分は親の口論の調停に駆り出されてました、まあそれで更に色々ぶっ壊れたわけですが)
また、自分は医師よりグレーゾーン(よりやや上の)ASDという診断を現在受けているのですが、これに起因するか否か、達成しないといけない物事を柔軟に変更するのが苦手で、変更を強いられることやそれによる後始末をさせられることに拒否感を覚えたり、怒りを覚えます。しかし、日常生活を行うためにそれをぐっとこらえて、許容の方向へ持っていこうと理性で踏ん張ります。その他にも承認欲求があるのに、いざ認められると突発的な拒否感を抱いたり、楽をすることへの恐怖など割とシッチャカメッチャカな感情が飛び出します。これを全て理性面で調停し、自分にとって安定するような方向へと持っていきます。
他にもやる気があっても物事にどうしても集中できない時は過去の恐怖を意図的に思い出すことで脳を震え上がらせ、集中するというような毒をもって毒を制すみたいなことをしていました。
まあ、要するに感情のコントロールを山ほどすると、頭がそれでパンクして、色々な感情が脳内で爆発したり調停されたりします。これはとても疲れるんですが、起床から就寝まで絶えずやっているとまあなんとか生きることは出来ます。
このような事を常々やっていると、体にも異常をきたし脈拍がおかしくなったり、意味もないのに咳をしたり、誰かに見られている気がしたり、手が震えたり、発狂しそうな気がしたり、もう色々なことが起きます、これはパニック発作と言うものらしいです。これも抑えれば抑えられるのですが、常に心身不調で「きついな…」と声に出てしまうこともあります。自分はそれを親に怒られて更に悪化するなどを繰り返していたりもしました。ついでに、激しい感情を持つとその後に多少なりとも体に現れるというのも昔からありました。
さて、そんなメンタル面で対応しようとしても限界があるし辛いものがあります。自分はそれをなんとか抑え込んでいたんですが、今回諸般の事情によりやらかしましてこの制御ができなくなった結果、一気にぶっ壊れました。もう心身ともにぶっ壊れて体は痙攣するわ、泡吹くわ、感情は暴走して自己批判やらそれの調停にかられて頭は回らんわ、わけのわからないことを言うわ、普段と違う発言をするわで、完全に壊れるわけには行かないのはわかっていたので必死に制御しても傍から見たらぶっ壊れた人間だったと思います。
まあ要するに、感情に紐つけて制御するのは程々にすべきだ、ということを言いたいわけです。
そこで最後の話題に入るのですが、最近の精神薬はすごいぞ、ということです。
今回、病院に行って複数のお薬もらったんですが、体のパニック発作はそれ専用の薬でほぼ全て消滅・軽減しました。感情の衝突もいくつか(主に自己批判と恐怖)が消え去り、多少感情がふらついても安定に持っていくまでが短くなりました。
前回やらかしたときにも抗うつ剤をもらったのですが、三環系抗うつ薬のノリトレンというもので、暗い気持ちをバーーーンと持ち上げる感じの薬で、双極性やパニック発作がある自分には反動が大きかったのでやめてしまいました。ただ今回病状を(一人で病院にいけたことも有って)詳細に話したところ複数の適切な治療薬を頂いてコントロールが楽になりました。副作用もある程度きつく、眠気と甘い物が食べたいという衝動があるのですが、それに見合うだけの効果はありました。
残念ながら全ての症状は消え失せないですが、今後も薬を変えながらうまく行くものを探したいと思います。
というわけで、お薬に頼るのもわるかあねぇよ、という感じのことが言いたかったわけです。
皆さん、いろいろなバックグラウンドをお持ちかと思いますが、うまく頼るものを見つけて助け合ってご自愛ください。(自分はご自愛できないので、したつもりになってごまかして生きてます、ハヒー)